「麒麟がくる」のタイトルの持つ意味とは?テーマ性について考察

麒麟がくる タイトル歴史ネタ

大河ドラマ「麒麟がくる」のタイトルにある「麒麟」は、物語のテーマ性を理解するうえでも重要なキーワードとなっています。

今回は「麒麟」に関する基礎情報と、この「麒麟」が本作のストーリーテリングにどのようなテーマ性と展開を与えているかを考察していきます。

聖獣「麒麟」に関する基礎知識

麒麟

『三才図絵』より
wikipediaから引用

「麒麟」はキリンビールでもおなじみなので、何となくふわふわとしたイメージながら、なんかありがたい生き物(?)なのかな、くらいの印象があると思います。

こちらがキリンビールの麒麟ですね

この「麒麟」は、古代中国では「鳳凰」とセットで語られることの多い聖獣、いわゆる架空の生き物。
その外見は文字で説明するとなんだかすごくて

「麒麟」の外形の特徴
・大型で鹿に似た体で背丈は5mほど
・顔は龍の頭、尾は牛、足と蹄(ひずめ)は馬。角あり(後世になるほど本数が増える)。
・背毛は五色に彩られいて、毛色は黄金。身体には鱗がある。

うん、要するに「キリンビール」のキリンみたいな生き物です(笑)

それでこの麒麟がどういう性格の生き物かというと、

「麒麟」の性格・プロフィール
・非常に穏やかで優しい性格。
・殺生嫌い。足元の虫や植物を踏むことさえ嫌がる。
・寿命は1000年超
・王様が素晴らしい政治を行うときに現れる「瑞獣」という聖なる生き物である
・「鳳凰」「霊亀」「応竜」と共に「四霊」というユニットを組んでいる

というわけで、世の中が太平になると現れるとされる生き物、と古代中国で考えられていました。
したがって、世界の平和と安定、また末永く安定した王朝が続くように祈願する際には、装飾品や絵画などに頻繁に描かれています。

要するにとてもありがたい、まさに聖獣です。

ちなみに「麒麟」という生き物がよく登場する書物は、「詩経」「礼記(らいき)」や「淮南子(えなんじ)」といった、どちらかというとファンタジー感のある(中国でいう神仙思想の色が濃い)書物が多いので、「麒麟」自体は古代中国の人々の豊かな想像力のたまものといっていいでしょう。

孔子と「麒麟」のエピソードと織田信長

ところでこの「麒麟」、中国の影響を大きく受けた東アジアでは、時の権力者となる人物がとりわけ好む生き物です。
その理由の1つとなっているが孔子の有名なエピソードです。

孔子(紀元前552~479)

孔子によって編集されたとされる古代中国の重要な歴史書に『春秋』という書物があります。
この書物のラストで、国が乱れてしまって失望した孔子は、

『天下泰平とは言えない時代に麒麟が現れてしまった。人々は麒麟を気味悪がって捕らえてしまい、これを打ち捨ててしまったようだ(もう平和な世界はやってこないだろう)。』

と書いて筆をおいてしまい、その2年後、失意のうちに亡くなってしまうのでした。
「春、西に狩りして麟(麒麟)を獲りたり」という『春秋』の「獲麒」という一節

このエピソードは大河ドラマ「麒麟がくる」のテーマ性とも深くかかわっていますよね。
ところが、この有名エピソードをポジティブに解釈する権力者は

「我こそは麒麟を連れてくるものである!」

というノリで、麒麟のロゴやイラストを多用したりするのですね。
その代表格が織田信長(笑)

織田信長 花押
これは織田信長の花押(かおう)です。

花押というのは、いわば自署の代用として使うサイン、ハンコのようなもの。

信長は花押については諸説あるのですが、とりあえず信長が「麒麟」をかたどった花押を使っていた、ということを知っておくことは「麒麟がくる」のテーマ性を理解するうえで非常に重要なポイントとなるでしょう。

とても信長っぽいですよね。

「麒麟がくる」が描きたいのは「麒麟」ではなく「人間」

ということで、「麒麟」という聖獣を表す言葉に込められた意味とは
「天下泰平をもたらす者」
といったところでしょうか。

「麒麟がくる」第1話のラスト、通称「戦国バックドラフト」のあと、十兵衛とお駒さんが語り合うシーン。
いつか平和をもたらす麒麟が現れるはずだと信じるお駒さんに対し、京やその周辺の惨状をこの目で見た十兵衛は

「麒麟は来ない!」

と憤ります。

ここでこの大河ドラマのテーマ性が明らかになるわけですが、
ドラマとしておもしろいのは、視聴者側はすでに
「誰が麒麟だったのか」
その正解を知っているということ。

そう、観る側は麒麟が誰なのかをもう知っている。
そのうえで、残念ながら明智光秀がその正解にたどりつけなかったことも知っている。

つまり、このドラマは結局

「間違ってしまった人の悲劇性」

をめぐる物語だという事です。
それは単に「間違ってしまってバカだね」という話ではなく、

なぜその決断をせざるを得なくなったのか
なぜそれが正解だと思ってしまったのか

という、人間が正しく判断することの難しさという普遍的なテーマ性を持っています。

だって、マーク式試験の解答ならいざ知らず、人生なんて間違いの連続でしょう?
正解を出し続けることなんて、人間関係にしろ仕事のキャリアにしろ、なかなかできませんからね。

そしてこの大河ドラマがおもしろいところは、
天下泰平をもたらす「麒麟」を連れてきそうな人は、主人公ではないというところ。

むしろ孔子のエピソードのように、単に気味悪いと聖獣「麒麟」を始末してしまったような人間、常に「間違えてしまう生き物」である人間そのものを、描こうとしている、と言えるのではないでしょうか。

そう、「麒麟がくる」が描くのは実は聖獣「麒麟」ではなく、
間違えて麒麟を打ち捨ててしまう「人間」という生き物の方なのです。

「麒麟」候補の皆さんに注目しながら楽しもう

ところで、5月現在、「麒麟がくる」はコロナウイルスによる撮影中断という苦境に立っており、6月7日の21話を持ってしばらく中断となります。

この時点では、美濃編が終わって越前編に入ったところです。
ますます物語は佳境に入るところなので、かなり残念ですね。

今後も多くのキャラクターが登場しますが、麒麟を連れてくるものは誰なのかという真の正解肢はさておいて、

ストーリー上、主人公の十兵衛が

「この人こそ麒麟を連れてくる人だ」

と考えているのは誰かを読み取りながら観ると、この大河ドラマは歴史に詳しくなくても十分楽しめると思います。

現時点で私が言えるのは、とりあえず朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)は確実に「麒麟」を連れてはなさそう、ということだけです。。。。