「麒麟がくる」岡村君の正体が見えてきたので、簡単に考察してみよう

歴史ネタ

実在の人物なのか、架空の人物なのか、はたまたただの農民なのか、素破(ニンジャ)なのか、という謎多きキャラクター、岡村隆史さん演じる「菊丸」ですが、「麒麟がくる」20話を超えた今、その正体が何となく判明しつつあります。

今回は謎多き「菊丸」、別名「春次」について、戦国ファンのライターである管理人が解説します。

岡村君の「菊丸」は水野家所属


最初から戦国ファンは「菊丸は忍者だな」と勘づいていたのですが、問題は忍者のどなた様か、という点でした。

設定として菊丸は三河出身、これも経歴を偽っている可能性がありましたが、三河の話や松平家の話になるとマジトーンになることから、三河の国衆かその手下であることは確定的であろう、という話になります。なので、伊賀者である服部半蔵の線はないということ。

しかし、三河出身の有名な忍びってパッと思いつかないわけなんです。
そこで、菊丸に関しては誰の元で諜報活動をしているのかが重要なのですが、これは劇中で明確になっています。

菊丸の主君(推定)は「水野信元」です。

これは結構、ナルホド、という設定です。

水野家についてはあとで簡単に説明しますが、今でいう知多半島から東方、常滑市から刈谷市にかけてのエリアを支配した一族です。まさに尾張と西三河の境目ですね。

水野家の勢力圏は東の松平家、今川家、西の織田家、さらには北東(現在の豊田市の北側)にまで勢力を伸ばしてきた武田家に囲まれているという「超激戦地帯」にありまして、戦国期はしょっちゅう戦場となったエリアでした。水野家もその生き残りをかけて非常に過酷な運命をたどることになります。

それで、菊丸はこの「水野家」ゆかりの人物であるとして、さらに気になるのは「春次」いう、尾張潜入後から名乗っている名前。

実はわずかに名前だけが残るくらいなのですが、「水野正春次」という武将がいた、という記録があるのです。

川口城主「水野正春次」説

「水野正春次」という武将は川口城主として記録が残っています。川口城は現在の豊田市市街地から北東、下川口御堂にある山城です。現在も史跡も残っていて、シンプルな帯曲輪と主郭で構成された典型的な「ザ・山城」という感じですね。

参考記事⇒攻城団HP「川口城址」

ここの城主として記録されている人物が「水野丈兼正春次」という人で、どうやら刈谷からやってきた水野家の一員のようなのです。

この川口城周辺は矢作川沿いの重要拠点で、北は美濃、東は飛騨や信濃とつながる、まさに三河の防衛最前線。したがって、ここを水野家から任されていた水野正春次はそれなりに信頼された武将だったと考えられます。

ちなみに川口城は天正3年(1575年)、武田勝頼軍によって落城しています。水野正春次は落城後、尾州水野家に逃れた、とされているので、刈谷城の水野家本隊のもとへ退却したということでしょう。

これ以上の情報はないため、「麒麟がくる」の菊丸は彼なのかは定かではないです。

たまたま名前が一致したか、わずかに残る水野家ゆかりの名から「春次」という名を取ったか(多分コチラが正解)、どちらかでしょう。

ということは、当初予想されていた明智光秀を討ち取った野武士狩りの一員としての線はないかな、ということで、予想通り、「麒麟がくる」は間接的な「天海end」ともとれる感じでしたね。

あとは斎藤利三(としみつ)ですが、わりと「麒麟がくる」では影が薄かったww

1天海endとは
明智光秀が山崎の合戦後、徳川家康の右腕となる謎の怪僧「天海」に転生したという俗説。いろいろと怪しい状況証拠があるのと、単純に面白いので講談や劇画で描かれることが多い。ちなみに管理人がドはまり中の戦国妖怪アクションゲーム「仁王2」でも、当たり前のように光秀は天海となっていた(ちなみに仁王2の斉藤利三はめちゃくちゃ格好いい)。
2斎藤利三(としみつ)とは
明智光秀の右腕の1人で、美濃斎藤家ゆかりの人物。文武両道に優れ、茶人の津田宗及(3大茶人の1人)や桃山時代の巨匠、絵師の海北友松といった超一流文化人とも関係が深かったりする。何より、娘の斎藤福はあの「春日局」となることでもスゴク有名。

水野家とは

水野家

水野家家紋

刈谷地方、常滑地方を支配した豪族

水野氏は戦国時代に尾張国知多郡東部から三河国碧海郡西部、つまりは知多半島から現在の豊田市周辺までのエリアを支配した豪族です。

ちょうど尾張の織田家と三河の松平家のあいだに位置しています。清和源氏を自称していますが、まあ、この当時の豪族や国衆はとりあえず清和源氏を名乗るので、まぁそれはいいでしょう。

注目すべきは「麒麟がくる」で登場する水野家の当主・水野信元の戦略です。信元は織田家と組んで知多半島の統一に成功しています。その後も基本的に織田家側について、三河の覇権を今川と争う姿勢は一貫しているといえるでしょう。

この三河をめぐる攻防のさなか、松平家の次期当主「竹千代」も織田方から今川へと移るわけですね。ちなみにこれも大河で描写がありましたが、家康の実母・於大の方は信元の妹。家康が今川方についた時点で離縁させ、別のところに嫁入りさせています。中小の大名・豪族の生存戦略です。

水野信元暗殺事件

桶狭間以降は今川の勢力が衰えたところで家康(松平元康)は独立勢力となり、織田信長と接近します。その仲介役となったのが水野信元でした。これ以降、水野家は基本的に織田・徳川連合軍のもとで、今度は京への進出を目論む強敵・武田信玄と戦うことになります。

しかし、1576年、信玄死後の武田勝頼との戦いのさなか、あの佐久間信盛が「水野信元は武田と内通している」という讒言をします。水野家の勢力拡大もあって、ここで裏切られたら織田・徳川連合は崩壊する!そう考えたか、信長は家康に信元の暗殺を命令。これによって三河の大樹寺で信元は殺されてしまうのです。

この事件はその後の松平家に起こる悲劇(築山殿と嫡男元康の死)や暗殺実行者の1人だった重臣・石川数正のまさかの出奔(豊臣入り)にも関連しているといわれていて、戦国時代に起きた事件の中でもなかなか胸糞の悪い事件の1つと言えるでしょう。

というのも、水野信元はのちの研究においてもどうやら「シロ」だったようなのです。

暗殺実行者の武将・平岩親吉は信元を斬ったあと、その亡骸を抱えて涙ながらに詫びたそうですし、案内役の久松俊勝は「こんなんやってられるかい!」とそのまま行方をくらましてしまいます。

それくらい当事者にとっても「???」な事件で、関係者のショックは大きかったと予想できますね。だから佐久間信盛ってよ~ホントに(以下自粛)

水野家再興後、大老を輩出する名門に

その後、水野家はどうなったか。

1580年、例の佐久間信盛が信長から戦力外通告を宣告されます。その時に、信元が冤罪だったことも明らかになって、信長は「ごめん」といったかどうかは知りませんが、信元の弟で家康のもとで働いていた水野忠重を、刈谷城主に復帰させることになりました。ここに、刈谷3万石の大名として水野家は再スタートをきることになります。

水野家はその後も秀吉、家康に従って大きく勢力を伸ばし、江戸時代は家康の生母の実家ということもあって、水野家一門は親藩に次ぐ地位にありました。天保の改革で有名な大老・水野忠邦などの老中格、大老格を輩出した名門として続いていくのです。

水野家と言えばあの人を忘れてはないかい

ということで、「麒麟がくる」では西三河を支配する水野信元配下の素破(忍者)兼武将(当時はここら辺の線引きはあいまい)と推定される、岡村隆史さん演じる「菊丸(別名・春次)」について、簡単に説明してきました。

ところで、水野家と言えば、戦国ファンにとっては語らずにはいられない武将がいます。

「この人を大河ドラマにしてほしいランキング」でも常にトップ争いをする、
「鬼日向」こと「水野勝成」です。

この人は先ほど出てきた水野忠重の息子で、ハッキリ言って人生そのものが伝説です
というかもはや人生が劇画調!

原哲夫先生が「花の慶次」ではなく「鬼日向」のマンガを描いてた日には、今頃、勝成は国民的なキャラクターになっていただろうに・・・と我々戦国ファンは地団駄踏んで残念がっております。

「鬼日向」がいかにスゴイ奴かについては次回、簡単に紹介しようと思いますので、ご興味のあるかたは是非のぞいてみてください。